セッターとおにぎりと少年漫画

2018年11月17日、22歳の赤葦くんは大手出版社で働いているらしい。前髪が少し伸び、眼鏡をかけ、制服でもユニフォームでもジャージでもなければちょっとヘンテコな絵の入ったTシャツでもない普通の(ちょっとオシャレな!)洋服を着てカメイアリーナ仙台に現れ、試合が始まってるにもかかわらずおにぎり宮に並ぶ赤葦くんは、知っている人のような知らない人のような不思議な感じがした。四角い枠の中にぎゅうぎゅうに詰められた「赤葦くんの現在」を表す文字列を見つめながら、彼のこの5年ほどの努力を思った。大手出版社で働けるだけの能力が認められたことも、選考の過程でその能力を正しくアピールできるようにたくさん準備を重ねたであろうことも、そうやってアピールできる「自分」を作り上げたであろう大学生活4年間も、大学受験も。全部全部めちゃくちゃ頑張ったんだなあ、すごいなあって勝手に嬉しくなってしまった。そして編集者という職は、「いい大学に入って」「いい会社に入る」というなんというかわかりやすい「成功」という以上に、私の知っていた赤葦くんの進む道としてなんだかわかるなと思った。目標に向かってコツコツと、そりゃあもうコツコツと努力を重ね続け、今やるべきことできることに注力し(タスクフォーカス!)大学受験や就職活動を突破した結果、漫画という領域において光るものをもった人物を支え導きマネジメントする仕事で(当然仕事はこれだけじゃないでしょうが)飯を食っている。多分めちゃくちゃ向いてるんじゃないだろうか。 

 

 

こんな服を着るんだなということも眼鏡をかける程度の視力であることも文芸誌を志望していたくらいには本が好きだったということも、こんなに優秀な子であったことも、私は今まで何も知らなかった。それはなぜかっていえば今までずっと赤葦くんはバレーボール部の赤葦くんであったからだ。狢坂戦が連載していた頃から1年が経ち、春高も何もかも飛び越えて突然22歳になって出てきた赤葦くんはもうバレーボールをやっていなかった。いや、わからないけど。でも大手出版社の激務をこなしながらバレーボールを趣味として続けているっていうのは考えにくいかなって思う。大学で続けていたか、高校3年生の春高まで残っていたかも微妙なところじゃないだろうか。赤葦くんの「未来」が純粋に喜べるものであったこともまた事実だけど、今確実にバレーボール人生を終えている赤葦くんを目にして、やっぱり感じるのはさびしさだった。私が唯一知っているはずの「バレーボール部の」赤葦くんの「バレーボール」を、それすら私はよく知らないまま終わってしまうんだな、というまあどうにもならないあれである。 

 

 

バレーボール部の赤葦くんの話をする。赤葦くんという子は全国常連の強豪梟谷学園高校の男子バレーボール部で2年生ながら副主将、正セッターを努めていた子で、たぶん結構すごい。集団の上に立つ能力が評価されたのか主将たる木兎さんのサポートという形でこの役職を与えられていたのか分からないけど、バレー部は1月の春高の後新体制になるわけなので赤葦くんは1年の冬の時点で既に監督から、あるいは先輩から「副主将」というポジションにふさわしい人物であると思われていた(と推測できる)わけです。めっちゃすごいのである。彼がどんな子かというと、これは私の主観以外にはなりようがないので難しいけど、個人的なイメージで言えば「3本の指にはギリギリ入れないですかね」「一枚ブロックに勝っただけっスよ」「1点もやらないのはムリだと思います」このあたりの発言からは冷静で現実主義っぽいところを感じる。「先輩にわざときつく当たる」コミュニケーションの取り方をするようななんかおちゃめな感じの子には見えないかな?という感じなので、マジレッサーというか、真面目がゆえに…みたいな受け取り方をしている。かわいいのである。

 

 

そのイメージはプレースタイルについても同様で、後述しますが試合中に調子を落とす木兎さんへの対応なんかを見ても、基本的に「冷静」という言葉がやっぱりしっくりくる。夏合宿においては影山のトスが大きく変化したことを的確に捉えていたことだとか、春高の複数の試合で「解説役」を担っていたことから、洞察力だとか分析力みたいなものが優れているようにも感じる。赤葦くんの特性というより漫画の「説明役」という部分も大きいかと思うのでどの程度を赤葦くんの特性として受け止めていいのかというのは難しいところだけど、少なくとも説明役を担える程度にはちゃんと見えている選手として捉えてもいいのかなって思う。

 

 

初期に明かされたプロフィールの能力パラメータでは、ほとんどの項目において5点満点中4点という高得点が与えられている中、「パワー」だけ3を示していて、これについては赤葦くん自身が最近の悩みとして「もうちょっとパワーをつけたい」というように言っている。「能力パラメータ」は作者が作っているものなので客観的評価を正確に映しているものだけど、赤葦くんは自分に今足りていないものっていうのを正確に理解しているわけです。(というか、「正確に理解しているキャラ」として作者によって作られている。)また、夏合宿で見た影山のトスについて「俺には技術的に無理」だと分析しながらも特に感情的な動きも見られず冷静にゲームメイクを行っていることだとか、同じ試合で「少し熱くなりすぎている木兎さんにトスを上げた場合」とかって言って場合分けをして細かくシミュレーション・最善の手を考えているあたりを見ても、現状の把握と今の自分のすべきこと、あるいは課題について正確に認識している選手なのではないかな~と思う。

 

 

そして選手としての赤葦くんについて語る時にやっぱり外せないのが木兎さんとのことである。梟谷の試合の基本的なパターンとしては、試合序盤では調子の良かった木兎さんが何かをきっかけに調子を落とし、赤葦くんがそれになにがしかの対処をし、木兎さんが調子を取り戻す、というものである。その「対処法」としては、例えば夏合宿の烏野戦においては、しばらくトスを上げずに放置したのち相手チームの意識が木兎さんから逸れるタイミング、更に木兎さんが打ちたくてソワソワし出すタイミングを見極めて絶好のタイミングでトスを上げた。また東京代表決定戦音駒戦では、ローテーションと相手選手の分析の上で、木兎さんがもっとも得点しやすい状況を作り出した。更に春高栄和戦では、木兎さんの攻撃機会を減らし「そわそわし始めた」頃を見計らい、モチベーションを刺激する言葉を掛けることで精神面に働きかけた。

 

 

木葉の「赤葦たまには木兎スルーしても良いんだからな?まあ復活してもらわないとマズい時もあるけども…」という発言からは、チームのメンバーの立場から客観的に見ても、赤葦くんの対応が木兎さんの復調に一定の効果をもたらしていると評価されていることがわかる(赤葦くんはそれに対して「俺が引き出せるのは木兎さんの力のほんの一部ですし~」と答えており、自分が木兎さんをうまく使っているんだ、みたいな態度ではないにしても少なからず木兎さんのプレーに関与しているという自負が見て取れる)。東京代表決定戦における猫又監督の「木兎立て直しの手腕に拍手だな」という発言を見ても、赤葦くんがある程度木兎さんの調子をコントロールしていることが客観的にも評価されているんじゃないかな~と思う。

 

 

こんなふうに、赤葦くんの(あくまで主観的な)イメージとしては、冷静で分析力が高く、臨機応変な対応に長けた選手であるといえるのかな~と思う。ここまでが以前の赤葦くんの話。

 

 

赤葦くんという子は個人として主人公と強い関係性が描かれているわけでもなく、烏野とすごく特別な繋がりがあるわけでもない他校の選手であって、この子に焦点を当てた話がいつかくるのかどうか?はびみょ~なところ…といった感じだった。キャラクターとしての役割は月島との接触の中で終えているのかなとも思える。で、そんな赤葦くんなのですが、稲荷崎戦あたりから、「これはのちに回収が…あるの…かな?」と思えるような思えないような微妙な感じの伏線というか布石をね、ちょこちょこと置いていくようになったのである。

 

 

そのいちばん象徴的なもの(と私は思っている)が稲荷崎戦、254話「変人・妖怪・魑魅魍魎」において、日向影山の変人速攻をマネして見せた侑に対する赤葦くんの言葉だった。「相手の得意な事を敢えてやって見せる事で精神的圧力をかける それをやれるセンスとやってみようと思い切れる事に嫉妬しますね」。何かと説明役を担うことの多い赤葦くんですが、たぶん初めてというくらいに明確に「感情」が乗った言葉で、単純に説明のためだけのセリフではなく、赤葦くんの口から発せられたということに意味のあるセリフだった。限られた時間の中で自分のやるべきことに取り組んでいくためには、技術的に可か不可かという判断はやはり必要なものであるし赤葦くんはその分析が上手いんだろうと思っているけど、やってみようと思い切れる事に嫉妬するという言い方は、「やってみよう」の前の段階でもうやめちゃってるみたいな、というよりやめちゃってすらいないというか。「やらない」を積極的に選ぶわけでもなく、ただ「やってみる」は選べない、とブレーキをかけているような、そんな感じがした。基本的な技術の更に「+α」の部分に目を向けたとき、セッターとしての侑の強みというのは、梟谷のセッターとしての赤葦くんの強みとは対極にあるものなのかなと思う。たぶんそこに単純な優劣はないけど、赤葦くんが自分とは異質な強さを持つ侑のプレーに手を伸ばすことはしないまま嫉妬すると言ったことは、なんだかず~んと重く残った。

 

 

それから「考えすぎる」というワードが出てきたのが292話「いつの夜も二度とない」だった。この日の木兎さんの調子がよいことを振り返り、ひとり「欲を出すと良く無い事が起こる気がする」と難しい顔をする赤葦くんを見た猿杙くんの「赤葦がまた考えすぎてる」という心の声が描かれる。みんな思ってることをちゃんと口に出しなさい!という感じなのですが、赤葦くんは(やはり木兎さんの調子について、ということが多いと思うけれども)ひとりでぐるぐるぐるぐる考えがちだしそれを他と共有するかというと、まあ、しない。これまでを見ても他のメンバーが木兎さんに呆れていたりまあ分かるよ…と共感を示したりほっとけって放置を選んでいる間赤葦くんはひとりああだこうだと考えに考えを尽くして、結果的に木兎さんが調子を取り戻すという感じなわけである。

 

 

こういう感じで、伏線ってほどすっごくざわざわした感じでもないけど、赤葦くん推しとしてはちょっと今までとは違う描き方がされてきてるかな?みたいな描写がちょいちょいとある中で、狢坂戦が始まる。背負うものの大きさからかやはり考えすぎてしまった赤葦くんは、狢坂の「赤葦狙い」も相まって調子を落とし、一度ベンチに下げられてしまう。そしてコートの外から試合を見たとき、「この人達(恐らくはチームメイト)」と自分が同じであるかのように思っていた、そして有ろうことか木兎さんをコントロールした気になっていたと気づく(らしい)。なんて烏滸がましい。スターを前にしたとき自分にできる事とは「タスクフォーカス」——「いつも通り」をやることであり、唯一コントロールすることのできる自分の思考と行動に目を向け、「次自分にできる事とすべき事」に注力するのだと、一度どばっと溢れ出てしまった「嫉妬」「憧れ」を試合中には不要なものであると、振り切っていく。試合終盤、「いつも通り」をやる赤葦くんは、いきなりはやいタイミングで飛び出してきた木兎さんに、頭の中であらゆる攻撃の可能性や状況の分析・推測をぐるぐると巡らせる。そして「ああ ちょっとやってみたい」と一番単純な衝動に突き動かされるように、トスを上げる。セットの前にすでに木兎さんは踏切を終えている状態。木兎さんのバックアタックは桐生の腕を跳ね、落ちる。確かに「いつも通り」の外に足を踏み出した赤葦くんの衝動が1点につながった瞬間であった。

 

 

良かったことはあった。「タスクフォーカス」と同時に嫉妬や憧れを一旦はコートの外に締め出した赤葦くんが、今までやったことのない攻撃を突如要求してきた木兎さんに、あらゆる思考を飛び越え「やってみたい」と応えたこと。それは確かに「いつも通り」の赤葦くんのプレーではなかった。侑のプレーを見て、やってみようと思い切れることに嫉妬しますと言った彼が、スターのいるチームで勝つためにはそんな個人的な嫉妬や憧れを今は不要だとした赤葦くんが、「やってみたい」という感情に出会い、そしてついに試してみることができたことは、本当に嬉しかった。

 

  

それでもやっぱり、狢坂戦で描かれ、そして描かれなかったものは、1年が経っても自分の中にモヤモヤしたものを残した。333話の感想でもいろんなことを書いたけど、

 

pero2pero.hatenablog.com

 

全部が終わった今改めて思うことは、その1つは赤葦くんの自己評価の低さに最後まで触れられることなく終わってしまったなあということ。ベンチからコートを見つめる赤葦くんは、「いつの間にか自分もこの人達と同じであるかのように思っていた」と独白した。赤葦くんが「推薦で強豪校に来た2年副主将セッター」で、「影山からも一定の評価が為されている」ことを考えても彼は客観的に見て能力の高い選手だと思う。少なくとも赤葦くんが自分と「この人達」との間に線を引いちゃうのはちょっと変だ。実際の彼の能力と彼自身が認識しているそれとがちょっとズレすぎているように感じた。「赤葦くんを自己評価の低い人物にするな!」っていうことではない。赤葦くんと同じように自分に自信を持てず劣等感を抱いていた桐生は、チームメイトに弱音をこぼし、励まされ「自分に自信はないが信頼する仲間が最強だと言ってくれる」からと、仲間の信じる自分を信じることでやはり強くなっていた。対して赤葦くんはといえば、頭の中でぐるぐる考えていることは決して口に出さなかったし、そんな赤葦くんにきっと誰も気が付かなかった。コートのみんなと自分は違うんだと、なんて烏滸がましいことを考えていたんだとそういう振り切り方をしていつも通りに戻っていったことを、皆は最後まで知らないままで終わってしまった。

 

 

 それから、赤葦くんという選手像が狢坂戦の前後でだいぶ変わったように感じること。ネガティブな振り切り方はしたけども、いつも通り自分にすべきことをやるのだという「タスクフォーカス」は、のちの烏野vs鴎台戦で赤葦くんによってこう語られる。「鴎台は俺が辛うじてやっとできた事を全員が常にやっているという感じです」…びっくりしてしまったのは、「次自分にできる事とすべき事」に目を向けるタスクフォーカスというやり方は、赤葦くんにとって狢坂戦でようやっと獲得したものなんかではないはずだから。赤葦くんはずっとずっとそういうことを得意とする選手であった、と私は思う。木兎さんが調子を落とす/落としかけたときに試合の状況なんかを分析し、自分のプレーでできることを通して木兎さんが調子を取り戻せるよう努めていたこともそうだと思う。たまたま狢坂戦では調子を落として「目の前の一球」から目が逸れてしまっただけで、いつも通りをやる赤葦くんの方が本来の赤葦くんだったんじゃないか。それはいつの間にか「ついさっき辛うじてやっとできるようになった」という話に変わってしまったみたいだった。

 

 

 そして最後に、木兎さんとの話になる。試合後、赤葦くんは「試合中に余計な事を考えました」と涙をこぼす。木兎さんは、「最初は空回ってたけど!」「理由分かってんなら大丈夫じゃん」とまるで他人事のように言った。赤葦くんが今回「空回ってた」のは最後の試合だとかそういうことを考えすぎて、ていうのは勿論あるけれど、木兎さんが普通以上に気を遣う必要のある選手であるために「木兎さんの調子を落とさないよう」考えすぎてその全てで空回りして、っていうのがあったことも要因の1つだと思う。だからただのエースになるという木兎さんの宣言は、そういう状態から赤葦くんを自由にするものだと思ったし、そうやって空回りしてしまった赤葦くんをきっかけに飛び出したものなのだと思っていた。要は赤葦くんが今回直面した課題は実際には2人ともが向き合うものなんじゃないかと考えていたんだけど、この木兎さんの様子を見るにこれは一から十まで「赤葦くんの」課題であったということらしかった。木兎さんは以前、稲荷崎戦で空回る田中を見て「たった1本のミスでも全部だめだって気分になるんだ」と言っていた。全部だめだってコートで1人みたいな気持ちになった時に、いつも赤葦くんが突破口を見出す手助けをしてくれていたことは、木兎さんには本当に関係のないことだったのだろうか。う~~ん…そうだったのかもしれない。赤葦くんはベンチからコートを見つめ、「木兎さんをコントロールしていると思い込んでいた」と言う。調子を調子を落とした/落としそうになる木兎さんが何とか持ち直せるようにあれこれと考えて手を尽くしていた(つまりそれは木兎さんの調子の波をコントロールすることだと私は認識していたけれど)なんてことは赤葦くんの勘違いだったらしい。じゃあ赤葦くんのやっていることって一体何だったんだろうなあと思う。試合中にしょぼくれてしまう不安定なエースに対して赤葦くんが働きかけていたことは本当は別に必要じゃなかったのか!?あっけらかんとした様子で赤葦くんにアドバイスを送る木兎さんを見て、そんなことを考え込んでしまった。

 

 

梟谷は脇役で、烏野と強い因縁もないのは確かにそうで、狢坂戦では2巻にまたがって長い試合を描いてもらって、これ以上の出番はたとえ引退試合でもないだろうなというのは覚悟していたことだった。だからこそ、狢坂戦で描かれたものに納得しきれないままになってしまったのが残念だった。そしてこの春高を勝って終えたのか負けて終えたのかもわからないまま、あの世界では5年の時が経過してしまったらしい。梟谷が優勝するとかしないとかっていうことは結局どちらでもかまわなくて、3年生が後輩に何かを繋いでいくところが見たかった。レギュラーの3年生が5人抜けたチームで主将を務めることになるであろう赤葦くんの未来を感じられる何かが見たかった。自分はチームのみんなとは違うと言った赤葦くんがそう思い込んだままでいてほしくなかった。

 

 

 今、赤葦くんは22歳になった。バレーボールは多分やっていない。いつまでやっていたかどんなふうにしてやめたのか、語られることはきっとないだろう。何百人といるキャラクター全員のそれを描くわけにはいかないので、まあそれは仕方ない!でもだからこそ、赤葦くん自身のバレーボールに唯一スポットライトが当たったあの試合で見たかったものがあった。これはいかにも盲目なオタクっぽくてあまり言いたくないけど(じゃあ言うな)木兎さんは自分のサポートをしていた赤葦くんに対して何か思うことはあったのかなとか、ありがとうって思うことはあったのかなとかってついつい考えちゃう。栄和戦で赤葦くんは、「絶好調の木兎さんは見ていてとても気持ちが良いですから」と話している。狢坂戦で語られた「スター」の話を見ても、赤葦くんにとってはきっと、スターにトスを上げることこそが大きな喜びだったんだろうなって思う。それはこっちが想像するよりずっとちゃんと「赤葦くん自身の喜び」としてあったんじゃないかな。だから例え赤葦くんのバレーボールのど真ん中にいるのが彼自身ではなくスターたる木兎さんであったとしても、赤葦くんが良ければそれでいい。「赤葦くんは」、それでいい。でもやっぱり私は赤葦くんのファンだから、赤葦くんにはそういうバレーボールをやっている「自分自身」のことも誇ってほしいって思ってしまう。赤葦くんには、自分自身がやっていたことにも価値があったと思ってほしかった!バレーをやめることを決めたとき、赤葦くんは自分のバレーボールのことをどう思っていたんだろうかと考える。もしかしたら「その時」の赤葦くんは自分を卑下することをもうやめていて、スターのいたチームで自分のしていたプレーがそれなりに褒められるくらいのものではあったことを分かってたかもしれない。その上で、高校の先のバレーボールとのかかわり方を決めたのかもしれない。もしかしたら挫折があったかもしれない。あるいは、もしかしたらスターのいるチームで自分がやっていたことの価値を知らないままに今に至るかもしれない。

 

 

バレーボールを仕事にしなかった誰もの人生に価値がある。この漫画は度々そういうことを描いてきたと思う。かつての小さな巨人は、テレビ越しに見ていた小柄な少年の心に確かに火を灯しながら、自分は他のやりたいことのためにバレー以外の人生を選んだ。高校バレーに悔いを残した明光は、仕事をしながらクラブでバレーを続けた。町内会のチームでバレーをする烏野OBは、忙しい中どうにか仕事と折り合いをつけて烏野高校バレー部のサポートに尽力してくれた。全国大会に出場するほどのチームで戦っていた北くんや天童や昼神は、「高校まで」と明言していたしそれはどれも希望に溢れた宣言であった。みんなみんなの人生が素晴らしい。だけど、この間まで高校バレーの選手であった彼らが、読者の見る事の出来なかったところで確かな人生の岐路に立ち、そして今バレーボールと離れた人生を送っていることに、今だけはちょっとくらいさみしいと言ったっていい、と思いたい。かつての小さな巨人は、私にとってはついこの間までは舞台装置か概念かという、そういう人物であった。バレーを仕事にしていない町内会の大人たちでも、やはりそれぞれの形でバレーボールに関わって生きている。高校でバレーをやめると宣言した選手たちのことを考えると、その最後の舞台を見つめていられたことにこそ大きな意味があったのだと思う。彼らと、ついこの間まで応援していた高校バレーの選手が突然5年後の姿としてバレーボールから離れた人生を歩んでいる様子を知らされることとは、自分の中ではやっぱり違う。何度も言うけれども、例え赤葦くんが挫折の末バレーを諦めていたとしても、悔いをひとつも残すことなくやめていたとしても、自分の能力を過小評価したままの決断であったとしても、どれだって失敗なんかじゃない。そしてどれであったとしても、今はバレー部の赤葦くんとの突然のお別れがやっぱりさみしいのである。

 

  

中学時代、好きでも嫌いでもなかったバレーボールを、言われるままに、だけど一生懸命やっていた赤葦くん。友人と話すその様子は何だかすごくふわふわしていた。きっとある程度のことは一定以上にできてしまう子で、だけど特別な熱を抱けるものにはまだ出会っていない。そして彼はスターに出会ってしまう。この中学時代の赤葦くんにとって木兎さんは、「当たり前」とか「普通」をぶち破って来るようなそんな衝撃的な人であり、確かに彼の世界を広げた人だった。全国常連の強豪に推薦をもらうほどに上手かったはずの赤葦くんだけど、「ストレートに人に褒められる」ことを珍しいことのように喜ぶ彼の意外なほどの幼さが妙に胸に来て、平坦だった赤葦くんのバレーボール人生は、多分スター選手との出会いによってどんどん変わっていった。
 
 
木兎さんがリベンジを果たしたその試合で、普段は感情と表情がいまいち一致しない、「テンションの低い」赤葦くんが、バレーを好きでも嫌いでもなかった赤葦くんが、瞳を潤ませて「俺達が世界の主役」だと独白したことが、私はやっぱりめちゃくちゃに嬉しかった。冷静で真面目で現実的な彼が、「世界の主役」なんて、めちゃめちゃに主観的で感情的でおっきなおっきなことを言う。そう思える高校時代の一瞬があっことを、どうか忘れないでいてくれたらいいなって、まあ架空のキャラクターにそんなことを思っても仕方ないが(元も子もない)、そう思う。
 
 
赤葦くんは今カメイアリーナ仙台にいる。試合が始まってるにもかかわらずおにぎり宮に並ぶ彼は、5年前のようにただ1人のスターを熱心に追いかけて生きているのではないらしい。それは多分すごくいいことだと思った。流されるようにバレーを続け、そして突然出会った「スター」に突き動かされるようにバレーにのめり込んでいた赤葦くんだったけど、今大人になった彼にとって大事なものは、選べるものは、もっとたくさんある。赤葦くんは木兎さんについて「本気には本気で応えなくてはと思わせる人」と語っていた。もちろん木兎さんがそういう選手であることももちろんそうだけれども、多分赤葦くんもまた、「本気には本気で応える」、そういう努力ができる人物であったんじゃないだろうか。少年漫画誌の編集になった赤葦くんを見て、やっぱりそう思った。
 
 
漫画の中の架空のキャラクターに幸せになってねとかって言うのも何だか少し照れ臭い。なのでこれからは、おにぎり宮の東京出店を願ってみることにする。

 

 

2020.1.30