ハイキュー‼︎第333話「タスクフォーカス」

332話、「俺が影山や宮侑のようであれば」という赤葦くんのモノローグがあまりにも苦しくて、だけど彼の成長に向かうための最後のステップなのだろうと、救われるだろうと読んだ今週333話。ぐるぐると考えたけどいろいろなことが分からないままなので、感想ではなくぐるぐる考えたことを書き連ねます。

 

 

背中に背負った「一球入魂」という横断幕。本当は想像よりずっと理性的な言葉だよという監督の話と共に、赤葦くんはコートを見つめる。そして言う、「なんて烏滸がましい…!」、そして「俺ごときが試合をどうこうしようなど」と。こんなに苦しい振り切り方があっていいのか。「だって赤葦だもん」と送り出され、木兎さんの言った通り赤葦くんは「短時間で冷静に」戻った。いつも通りに、「次自分にできる事とすべき事」をした。「スター」にトスを上げる冷静で安定したセッターとしてもっとも「正しい」形に収まったように見える。赤葦復活‼…そうなんだろうか。

 

 

確かに「復活」した。元の赤葦くんに戻ることができた。この試合の赤葦くんは、「自分が」試合をどうこうしようと「しすぎて」いたのは確かにそう。そこに「俺ごとき」「いつも通りを」という視点が入ることの意義も分かる。試合はチームでやるものだから、という意味で得点も失点も個人の責任ではないしエースが決められないのを赤葦くん個人が・「俺ごときが」背負うものではない。そういう意味で「俺ごときが試合をどうこうしようなど」という気付きがあったのはやはりいいことである。そしてなぜ今回彼がそう背負ってしまったかと言えば「負けられない戦い」だと意識しすぎていたからというのがあったわけで、そこを「いつも通り」やればいいだけ、と軌道修正することもまたやはり大切なことである。のだけど!これらは今の、この試合の赤葦くんのアレコレへのアンサーであり有効な視点ではあるけれども彼が根底に抱えているものに対して何か働きかけるようなものではない。というかむしろそちらへ一直線に突き進んでいったようにさえ見える。というのは赤葦くんがなぜだか自分自身を過剰に低く評価していて、また、単に自分はこれを飛び越えることができないというのではなくそれ以上に自分はこれを飛び越えていこうという「思い切りすら持てない」、という側面に対して、「俺ごとき」「いつも通り」はそれらを解決するようなものには全くなっていない。というより更にこれを深めるものになっているんじゃないのかなあ。

 

 

実際赤葦くんはコートに戻ってから、「俺ごとき」「いつも通り」という視点をタスクフォーカスという具体的な方策によって実現し、「良いプレー」を見せている。正しいのかもしれない。チームで戦うとは何かということを考えた時、ずっと勝ち続けてきた今までの通りにできることは正しい。それに何より赤葦くん自身が、「スター」や「この人達」の中で自分がプレーをするという時、「いつも通り」を遂行していくということが最も正しいと考えるのかもしれない。その「正しい形」が「俺ごとき」「烏滸がましい」の上に成り立っているものだとしても、赤葦くんはそれを苦しいことだとは思わないのかもしれない。それが私はもうめちゃくちゃに苦しいし悲しいしさびしいんだよ。例えそれが自分を過剰に低く評価するようなものであったとしても、今すべきことと自分とを見つめてある方向へ振り切って、コートに立ち堂々とプレーしている人のことをそんなふうに苦しいと思うのは失礼なことかもしれないけど、それでも、そんな振り切り方ってさびしいよって思ってしまう。

 

 

「俺ごとき」とか「烏滸がましい」というワードセンスが少し独特なだけで、実際はそれほど卑下しているわけではないのか?とかも考えたけど、「この人達と同じであるかのように思ってたんだ」とか「木兎さんをコントロールした気になっていた」の文脈であることを思うとやっぱり言葉通りの意味なんだと思う。一見「視界が広いなあ」って冷静に外から状況を見た上で的確に分析をできているように見えるけど、赤葦くんが「推薦で強豪校に来た2年副主将セッター」で影山からも一定の評価が為されていることを考えても彼は客観的に見て一定以上に能力の高い選手だと思うし、赤葦くんの認識はやっぱりネガティブに傾きすぎているように思える。

 

 

だって、木兎さんをコントロールしてたでしょ。その前のセリフで木兎さんだけではなくメンバーみんなとの間にも線を引いているあたり、「コントロール」まではしてないんじゃない?みたいな論点でもなさそうだし、「木兎さんの調子の波への対応」全般について言っているように思う。いやコントロールしてたでしょ~~。そして「この人達と同じであるかのように思ってたんだ」では木兎さんだけではなく他のメンバーみんなとの間にも何か差を感じているようで、これに関しては何を指してそう言っているのかがどうも分からない。あまりにも自分を卑下しすぎていて実際には存在しない差を見出しているから、赤葦くんだって持っているものを彼が自分だけは持っていないと思い込んでいるから、読者には何のことを言っているのか分からなくて当然なのではないかとか考えたけど、それにしたってそもそも何について話していて何について自分を卑下しているのか全く見えないんだよな~。自分とメンバーとの間のどんな差(に気づいたこと)が赤葦くんを「俺ごときが試合をどうこうしようなど」→タスクフォーカス、に導いたのだろうか。

 

 

 

作中で引用されていた本「バレーボールメンタル強化メソッド」では、「自分がベストであり続けるために何をするのかを考え、やるべきことに集中(タスクフォーカス)することが大切である」という文脈でタスクフォーカスについて書かれている。この本はあくまで参考であるから、この記述がハイキューにもまるまる同じように当てはまるわけではないにしても、「自分がベストであり続けるために」という視点は印象的だった。今の赤葦くんは自分のベストを追求していくというよりは「チームのベスト」であり「スターのベスト」を追求する、という比重が大きいように思う。勿論チームが・「スター」がベストを尽くすことが自分自身のベストである、っていうのはあるだろうしそれもおかしなことではないけど、赤葦くんが「嫉妬しますね」の時に見ていたものは「スター」にトスをあげる選手ではなく、ただの一選手ただのセッターとしての自分だったと思うし、「スター」を立てることに喜びやなんかを相当に感じているのは勿論あるだろうけど、あの時赤葦くんが見ていたもの、嫉妬した先にもまた赤葦くんのベストのひとつがあったんじゃないかって思う。そうだとするならば、その嫉妬を試合の外に置いて、「いつも通り」を遂行していくことで100%スターを立てる役割に徹している(それも苦しみながらなんてことはなく、ごく自然に)の、本当に本当にそれでいいのかって考えてしまう。

 

 

私が赤葦くんの「嫉妬」にどうしてもこだわってしまうのは、それが単に技術やセンスだけではなく「やってみようと思い切れること」にも掛かっているから。そこには少なからず「自分も思い切ることができたら」という思いがあるように見えるし、それって試合の中でしか向き合うことのできないものなんじゃないのかな。「やってみようと思い切れる事に嫉妬しますね」≒「自分も思い切ることができたら」が試合には不要なもので自分のやるべきこと・できることをやるのだ、という結論は、チームの勝ちを考えたらいいことかもしれないけど、赤葦くん個人の選手としてのステップアップを促すものにはなってない。自分に対して事実に即していない過剰にネガティブな評価を下した末に「今やるべきことすべきことに集中(タスクフォーカス)」という結論に至ったことも含めて、「スター」「チーム」を前にして、「嫉妬」という赤葦くん個人の事情をコートの中から徹底的に締め出したことは、赤葦くんの競技人生において本当に良かったことなのだろうか…と考えてしまう。

 

 

さっと切り替えて「タスクフォーカス」をやれることは勿論すごい。それを蔑ろにしたいわけじゃないし、その結論に至ったことはそれはそれでいい。ただ、それが事実よりずっとネガティブな自己評価を突き詰めた先の結論であったことがさびしい。とにかくこれ。この先は私のエゴだけど、赤葦くんは赤葦くん自身が考えている以上にすごいことをやっているということを誰より自分に知っていてほしいし、そのことに自信を持っていてほしいって思う。更に言うなら、結果がどうなるに関わらず「やってみようと思い切る」ことができると信じてほしいしその先が見たい。

 

 

 

ここで2週空くの本当につらいな!願わくば、この春高の後3年生のいないチームを引っ張っていくことになる赤葦くんが、この先どんな戦い方をしていくのか楽しみにできるような展開が見られるといいのですが。

 

 

(2019.01.11am)

(2019.01.11pm