ハイキュー‼︎番外編「海信行の悪夢」

劇場版公開記念番外編、読みました。

 

海視点で再び紡がれるゴミ捨て場の決戦決着の瞬間。番外編だからこそなのか、少し気の抜けた海の走馬灯になんだか笑ってしまう。休憩ばっかりとは言うけれど、音駒の後輩から他校の同期、後輩までいろんな相手の隣に穏やかな顔して座っている海の姿に彼の人柄が感じられて、なんでもないのだけれど、大人になった私はぐっときてしまう。あらゆる人の隣におんなじようにしてただ居るっていう難しさ。

 

 

海は終わりのそのさなか、どこか俯瞰的に自分の感情を見つめるうちに「終わりたくない」という核心にたどりつく。海のような子が、自分の感情そのまんまの部分に触れる姿に胸がギュッとなる。大人で穏やかで落ち着いていて、だけどまだ18歳。

 

 

海のバレーボールは静かに終わってゆく。後悔でもなければ不満でもない、胸にチリチリと痛むどうしようもなさ。それは「ちょっと嫌」だけど、多分これから時間が経てば、少しずつ受け入れながら、少しずつ薄めながら、いい思い出として抱えてゆけるようになるだろうとも思う。そこにリエーフが振った「もしも」の話が、海の胸に痛むそれをほぐしてゆく。

 

 

高校バレーの最後の1試合、最後の瞬間。海は、彼らは、時間が経てばその痛みを自然に「忘れる」こともできただろう。でも、みんなで茶々を入れながら「もしも」の「終わりの先」を語ったことで、みんなであの試合を終わらせられたのだろうなと思う。ちゃんと終わらせられたからこそ、海の悪夢は「終わったこと」ではなく「終わらないこと」になったんじゃなかろうか。終わりのあの瞬間、研磨の指先をボールが滑ったあの瞬間に高校バレーのすべてを閉じ込めてしまうことなく。あの瞬間をラストシーンとしてしまうのではなく。

 

 

音駒のみんなで語った「もしも」の「終わりの先」は彼らの3年間のバレーボールそのものだ。音駒の仲間たちに出会い、互いを知り、バレーボールをして、好敵手たる烏野に出会い、烏野を知り、バレーボールをした。そうして積み重ねたもの全部が、彼らの語る「終わりの先」の物語に詰まっている。

 

あの瞬間終わってしまったものではなく、終わるそのときまで続いたものがあったということ。そういうものに価値を感じさせてくれる物語であったことが、やっぱりわたしは嬉しい。ハイキューが完結してから3年半。ときおり心のうちに高校生の自分を思いながらハイキューの連載を追いかけていたわたしは、いつのまにか烏養コーチとかなんかより年上になっていた。あの頃、学校が、部活が世界のすべてのようだったけれど、本当はそんなことないってことはもう知っている。だからこそ、世界を広げそれぞれの人生を生きる彼らが、2024年に集まってお酒を飲みながらバレーの話をしている姿に、物語の先で変わらないものを持ち続けてくれる姿に嬉しくなってしまうのだった。

 

 

映画、楽しみだ。