劇場版ハイキュー‼︎ゴミ捨て場の決戦

みました。

よかった。

 

 

ハイキューの連載を追いかけ続けたあの日々ごと抱きしめたくなったよ。たまらなかった。彼らが積み重ねた関係性と練習の日々と、そして猫又監督と烏養監督から始まり今の彼らに至るまで重ねられた歴史とに、わたしたちがハイキューという漫画を、この物語を追いかけてこの試合を心待ちにしていた気持ちとが重なって、もう一回のない試合、二度と還らないそれを惜しんでいる暇なんてないってくらい夢中になっていく彼らに一層共鳴して、ゴミ捨て場の決戦はわたしにとって今のタイミングの映画だったかもしれない。

 

 

実際の試合と同じ85分の上映時間は、30分枠のテレビアニメでいったら4回分くらいで、あのボリュームの試合が85分にまとまったのにはやはりわけがある。

 

それは、これがまごうことなき孤爪研磨の物語であるということ。この漫画の中でなぜ研磨がこうも異質であるのか。それは、この世界のキャラクターたちみんなが当たり前のように持って(持たされて)この世界に生まれた「バレーボールは楽しい」というもっとも単純で根源的な動機であり理由であり情熱を、研磨だけが持たなかったという点にある。試合に勝つことが日向と研磨のライバル関係を決着づけるとは限らない。そこには試合の勝敗とは全く異なる物語があり、それはたぶん、スポーツの、バレーボールの価値そのものだ。「勝てるからやるわけじゃない」とはこの試合直後の大将の言葉だが、では「なぜバレーボールをやるのか?」。その答えを研磨が見つけるまでを85分かけて描いた作品であり、つまりそれは研磨の物語を通して「バレーボールは楽しい」というこの漫画のおそらく最大のテーマを描いたものなのだ。

 

 

だからこの研磨の物語を語るにあたり、原作からカットされたシーンは少なくない。猫又監督と烏養監督の物語。緊張した様子ではじめて研磨のうちを訪ねてきた黒尾が内に秘めた繊細さと内気さ。試合中のシーンについてもそうだ。アニメ化にあたって原作のエピソードが削られるとき、それを受け入れられるか否かは原作の意図したものをアニメがわかっているかどうかだと思う。今回の映画は研磨の物語であり、原作のエピソードの取捨選択においてその意図は一貫していて、映画というひとつの作品とするとき、そのテーマ(=バレーボールは楽しい、ということ)は際立って色濃く描き出されたように思われる。だからわたしは納得できた。

 

 

そしてきっと、85分という試合時間をわたしたちが体感することに意味があるのではないか。研磨が日向に、バレーボールにのめり込み、息を切らしてコートを走り回った85分の長さ、あるいは短さ。彼の人生の中における「この85分」を感じること。

 

 

第3セット、わたしたちの視点は研磨に重ねられる。バレーボールを何とも思っていなかった彼が、息を切らし夢中になってボールを追いかけるさまをこの身で体感する。「バレーボールは楽しい」に到達する物語、つまりはスポーツの・バレーボールの価値や意義を問う物語であるこの試合で、勝敗にもこの対戦にもさして興味を持たない研磨の視点は俯瞰的なものであるように思う。それが第3セット、研磨の主観に切り替わる。研磨は「バレーボールは楽しい」の物語の主人公になる。

 

 

そしてこのシーンは、間違いなくアニメーションだからこそ成し得た表現であり、アニメーションだからこそ持つパワーがあった。原作漫画が独創的でチャレンジングなあらゆる表現を尽くして語る物語を描き出すために、アニメだからこそできる、アニメにしかなしえない表現を取っているのが本当に嬉しかった。

 

 

この試合の先を生きる彼らの姿を私たちはもう知っている。エンドロールが流れ暗くなったスクリーンの中に、バレーボールを取り巻く全てに支えられていまを生きる彼らを思い浮かべながら。今わたしにとってこの試合は、はじまりの物語だ。