劇場版ハイキュー‼︎ゴミ捨て場の決戦
みました。
よかった。
ハイキューの連載を追いかけ続けたあの日々ごと抱きしめたくなったよ。たまらなかった。彼らが積み重ねた関係性と練習の日々と、そして猫又監督と烏養監督から始まり今の彼らに至るまで重ねられた歴史とに、わたしたちがハイキューという漫画を、この物語を追いかけてこの試合を心待ちにしていた気持ちとが重なって、もう一回のない試合、二度と還らないそれを惜しんでいる暇なんてないってくらい夢中になっていく彼らに一層共鳴して、ゴミ捨て場の決戦はわたしにとって今のタイミングの映画だったかもしれない。
実際の試合と同じ85分の上映時間は、30分枠のテレビアニメでいったら4回分くらいで、あのボリュームの試合が85分にまとまったのにはやはりわけがある。
それは、これがまごうことなき孤爪研磨の物語であるということ。この漫画の中でなぜ研磨がこうも異質であるのか。それは、この世界のキャラクターたちみんなが当たり前のように持って(持たされて)この世界に生まれた「バレーボールは楽しい」というもっとも単純で根源的な動機であり理由であり情熱を、研磨だけが持たなかったという点にある。試合に勝つことが日向と研磨のライバル関係を決着づけるとは限らない。そこには試合の勝敗とは全く異なる物語があり、それはたぶん、スポーツの、バレーボールの価値そのものだ。「勝てるからやるわけじゃない」とはこの試合直後の大将の言葉だが、では「なぜバレーボールをやるのか?」。その答えを研磨が見つけるまでを85分かけて描いた作品であり、つまりそれは研磨の物語を通して「バレーボールは楽しい」というこの漫画のおそらく最大のテーマを描いたものなのだ。
だからこの研磨の物語を語るにあたり、原作からカットされたシーンは少なくない。猫又監督と烏養監督の物語。緊張した様子ではじめて研磨のうちを訪ねてきた黒尾が内に秘めた繊細さと内気さ。試合中のシーンについてもそうだ。アニメ化にあたって原作のエピソードが削られるとき、それを受け入れられるか否かは原作の意図したものをアニメがわかっているかどうかだと思う。今回の映画は研磨の物語であり、原作のエピソードの取捨選択においてその意図は一貫していて、映画というひとつの作品とするとき、そのテーマ(=バレーボールは楽しい、ということ)は際立って色濃く描き出されたように思われる。だからわたしは納得できた。
そしてきっと、85分という試合時間をわたしたちが体感することに意味があるのではないか。研磨が日向に、バレーボールにのめり込み、息を切らしてコートを走り回った85分の長さ、あるいは短さ。彼の人生の中における「この85分」を感じること。
第3セット、わたしたちの視点は研磨に重ねられる。バレーボールを何とも思っていなかった彼が、息を切らし夢中になってボールを追いかけるさまをこの身で体感する。「バレーボールは楽しい」に到達する物語、つまりはスポーツの・バレーボールの価値や意義を問う物語であるこの試合で、勝敗にもこの対戦にもさして興味を持たない研磨の視点は俯瞰的なものであるように思う。それが第3セット、研磨の主観に切り替わる。研磨は「バレーボールは楽しい」の物語の主人公になる。
そしてこのシーンは、間違いなくアニメーションだからこそ成し得た表現であり、アニメーションだからこそ持つパワーがあった。原作漫画が独創的でチャレンジングなあらゆる表現を尽くして語る物語を描き出すために、アニメだからこそできる、アニメにしかなしえない表現を取っているのが本当に嬉しかった。
この試合の先を生きる彼らの姿を私たちはもう知っている。エンドロールが流れ暗くなったスクリーンの中に、バレーボールを取り巻く全てに支えられていまを生きる彼らを思い浮かべながら。今わたしにとってこの試合は、はじまりの物語だ。
ハイキュー‼︎番外編「海信行の悪夢」
劇場版公開記念番外編、読みました。
海視点で再び紡がれるゴミ捨て場の決戦決着の瞬間。番外編だからこそなのか、少し気の抜けた海の走馬灯になんだか笑ってしまう。休憩ばっかりとは言うけれど、音駒の後輩から他校の同期、後輩までいろんな相手の隣に穏やかな顔して座っている海の姿に彼の人柄が感じられて、なんでもないのだけれど、大人になった私はぐっときてしまう。あらゆる人の隣におんなじようにしてただ居るっていう難しさ。
海は終わりのそのさなか、どこか俯瞰的に自分の感情を見つめるうちに「終わりたくない」という核心にたどりつく。海のような子が、自分の感情そのまんまの部分に触れる姿に胸がギュッとなる。大人で穏やかで落ち着いていて、だけどまだ18歳。
海のバレーボールは静かに終わってゆく。後悔でもなければ不満でもない、胸にチリチリと痛むどうしようもなさ。それは「ちょっと嫌」だけど、多分これから時間が経てば、少しずつ受け入れながら、少しずつ薄めながら、いい思い出として抱えてゆけるようになるだろうとも思う。そこにリエーフが振った「もしも」の話が、海の胸に痛むそれをほぐしてゆく。
高校バレーの最後の1試合、最後の瞬間。海は、彼らは、時間が経てばその痛みを自然に「忘れる」こともできただろう。でも、みんなで茶々を入れながら「もしも」の「終わりの先」を語ったことで、みんなであの試合を終わらせられたのだろうなと思う。ちゃんと終わらせられたからこそ、海の悪夢は「終わったこと」ではなく「終わらないこと」になったんじゃなかろうか。終わりのあの瞬間、研磨の指先をボールが滑ったあの瞬間に高校バレーのすべてを閉じ込めてしまうことなく。あの瞬間をラストシーンとしてしまうのではなく。
音駒のみんなで語った「もしも」の「終わりの先」は彼らの3年間のバレーボールそのものだ。音駒の仲間たちに出会い、互いを知り、バレーボールをして、好敵手たる烏野に出会い、烏野を知り、バレーボールをした。そうして積み重ねたもの全部が、彼らの語る「終わりの先」の物語に詰まっている。
あの瞬間終わってしまったものではなく、終わるそのときまで続いたものがあったということ。そういうものに価値を感じさせてくれる物語であったことが、やっぱりわたしは嬉しい。ハイキューが完結してから3年半。ときおり心のうちに高校生の自分を思いながらハイキューの連載を追いかけていたわたしは、いつのまにか烏養コーチとかなんかより年上になっていた。あの頃、学校が、部活が世界のすべてのようだったけれど、本当はそんなことないってことはもう知っている。だからこそ、世界を広げそれぞれの人生を生きる彼らが、2024年に集まってお酒を飲みながらバレーの話をしている姿に、物語の先で変わらないものを持ち続けてくれる姿に嬉しくなってしまうのだった。
映画、楽しみだ。
愛をみた
「ハイキュー‼︎」が最終回を迎えた。
ハイキュー最後の28頁を読み切った瞬間、嘘のように幸せでいっぱいな?気持ちだった。さびしい終わらないで、この先何を楽しみに生きていけば、ってやっぱり悲しい気持ちがあって、だけど作者が描きたいものをすべて描ききって、めちゃくちゃおもしろいまま終わるその瞬間に立ち会えるのってめちゃくちゃ幸せだな、ってぐちゃぐちゃな気持ちですごしたこの2週間。だけど最後の1話を読んだとき、さびしさ悲しさより何よりもうこの漫画がやっぱり大好きだっていう気持ちしかなかった。
多分もう少ししたら…次のジャンプが出るときとかかな、本当に終わっちゃったんだなってさびしい気持ちにはなるんだと思う。だけど今はそれよりもっとずっと、幸せで胸がいっぱい。
ハイキューが最終回で描いた見開きのカラーイラストは、これまで登場した学校の子たちが梟谷の体育館に揃って、試合をしたりそれを観戦したり談笑してたりするそんなイラストだった。それがあまりにも夢のようでいとおしくて、そしてめちゃくちゃにハイキューらしかった。あらゆる子に光を当て愛情いっぱいに描いたこの漫画をずっと読んでいたら、気付いたらいわゆる「推し」とか特別大好きなキャラクターだけじゃなくて本当にすべてのキャラクターが好きになっていた。だからこの見開きイラストで、本当だったら高校時代に出会っていない子たちもまぜこぜになって円を作って交流している姿のどこを見てもかわいくて、どんな話をしているのかなってちょっと想像できたりして。
ハイキューが最終章で描いたのは、かつてバレーボールをやっていた彼ら彼女らの6年後の姿だった。日向・影山をはじめとするBJ、アドラーズの面々を筆頭に、観客席に集うかつてのバレーボーラーたち。V1、V2、V3、それ以外の場所でバレーボールを続ける人、あるいは今はバレーボールを続けていない人。正直に言えば、私はハイキューをずっと楽しく読んだ読者ではなかった。狢坂戦がやっぱり消化できないまま、そのまま作中では6年の時が経過。素直にいえばついていけなくなった。それでも毎週月曜日にはジャンプが発売されて、物語は進む。「読むのをやめる」という選択肢はなかった。興味がなくなったのなら自然とそうなるものだろうとも思うけど、100%楽しく読めなくなってからもこの漫画は変わらず私の生活の中心にあって、寂しさでも悲しみでもモヤモヤした気持ちでも、とにかく自分の中のこの漫画というのはずっと熱く存在していた。空白の6年間を経て、そこには喜びもワクワクも、納得も驚きも、戸惑いもあった。その中で自分にとって大きな転換点となったのは中島・照島らの登場だった。はじめは春高出場の「おなじみの」キャラクターから登場していく流れがあった中で、春高予選の1試合しか登場していない彼らの「現在」をも描くのかということに、とにかく驚いた。この漫画もしかしてすごくない?という改めての気付きと、ああこういう漫画だったな、という思いと。しばらくして、私がずっと見たい知りたいと思っていた梟谷のあの年の春高決勝が描かれた。狢坂戦当時どうしても晴れなかったモヤモヤは依然としてあったしこの時描かれた梟谷の決勝を見てもやはり苦しい気持ちは拭えなかったけれど、とにかく梟谷の春高はもうこれで終わった、もうこれ以上描かれることはない、という事実は、不思議と穏やかに自分の中で昇華された。そして数話後、連続して描かれた佐久早の話と若利くんの話のもう単純な面白さ、めちゃくちゃな面白さにすっかり救われてしまったのである。
最終回、白鳥沢の「情熱大陸でマブダチと紹介」の実現が若利くんでなく天童の密着であったというサプライズ。若利くんが「マブダチです」と声を重ねるのにじんわりきた。音駒、満を持して登場した彼らの現在もまた挑戦に溢れていた。夜久さんの代表入りと虎・芝山のバレーを続けるという選択は個人的にめちゃめちゃサプライズでもあった。反対に、モデルとして活躍する灰羽姉弟の姿はびっくりするくらい目に馴染んだ。笑 東京でオリンピックが開催されるっていうのに(かつての仲間が出場しまくるというのに!)「弾丸世界ツアー」に出ている旭と西谷のツーショットがあまりに最高だった。ふたりの子どもを抱いてテレビの前でバレーを観戦する「主夫」の笹谷の姿に、少年ジャンプでバレーボールを頑張った元高校生たちの未来のひとつとしてこれが描かれる価値の大きさを思った。そのプレーと信念を以てこの漫画に確かに大きな問題提起を投げかけた存在のひとりである大将がDivision2でバレーを続けていることが素直に嬉しくて、今どんなバレーボールをしているのか見たいなって、もしかしたら1番思うのは彼のバレーボールかもしれない。そしてその大将の高校時代の恋人であった美華。今恋人関係が続いているのかとかそんな説明書きは一切なく、確かにきっかけは大将であったけれども彼女もまたかつてバレーボールに触れた人物のひとりとして最終章で姿を見せたことが嬉しかった。そして影山に若利くん、岩泉、それぞれと因縁かあるいは約束かを背負い、アルゼンチンのセッターとして姿を現す及川。「全員倒す」という宣言をその身を以て力づくで果たさんとする彼のもうめちゃくちゃな強さ。青城の子たちが全力で、もう全然揺らぐことなく、100%、東京オリンピックで日本と戦うアルゼンチンの方を応援するのがあまりにかわいくて素敵だった。京谷が月島や黄金川と同じチームでバレーを続けていて、なんていうか「普通に」チームメイトの月島と言葉を交わす姿がめちゃくちゃに嬉しかった。
日本代表に選出された百沢、彼の1番最初のMAXすごい「高さ」という才能が「小柄な日向が成長してゆく物語」が存在するすぐそばでも決して軽視されず、「日本代表としてこの場に立つまで」育まれてきたのだということが嬉しかった。日向と影山を主人公とするこの漫画で、それでも侑が「コートに立たない方」なんかでは決してなく、強いセッターは1人じゃないと描かれたことには素直にほっとしてしまった。テレビに映る侑を指さしてはしゃぐ北くんのとびきりの笑顔が本当にかわいくて、そしてそんな北くんの隣に立ってももう「北さん笑っとる」とかそんなことは思わないだろう治と北くんとの少し形を変えた関係性もまたいとおしかった。世界の舞台で昔と変わらず漫才やってる侑とアランくんを映すテレビを見て本当に楽しそうに笑う治には、かつての自分の背番号「11番」を今度は侑が背負ってオリンピックの舞台に立っていることなんて、もしかしたら些細なことかもしれない。侑にとってもそう。たまたまかもしれないけど、治とのバレーが今の侑の筋肉をもりもり作りまくってここに立ってるんだということが改めて心にしみた。
最後は1話と同じ「バレーボール(排球)」で物語が締めくくらられてゆく。この漫画を読み続けた数年間、私や少なくない読者の中には原作の物語を追いかけた思い出と共に「ハイステ」の思い出がたくさんある。そらで言えてしまうのが全然不思議じゃなくて、それが妙に嬉しかった。「つなぐ」という言葉に思い起こされる401話分の軌跡。コートに立つ選手たちだけじゃない、かつてバレーボールと共に生きていたすべての子たちの未来につながっていて、そのひとつひとつの出来事が今の彼らを作っている。こんなふうに高校時代の部活の価値をずっと変わらず信じていけること、大切にしていけることって、多分簡単なことじゃない。でも読者である自分が、あるいはもっと若い少年少女の読者たちがこんな夢を見せてもらって生きていけることはめちゃくちゃに幸せだ。
最終話にはどんなタイトルがつくんだろうとずっと考えていた。最終ページ、「挑戦者たち」という文字に、全然予想も想像もしてなかったはずなのに「これしかないな」なんて思っちゃった。この漫画に登場した全ての人物がきっとかつての「バレーボール」の思い出に・それが作った筋肉に支えられてこれからを生きてゆく。ひとときでも、少しでもバレーボールに関わって生きた瞬間を持った彼ら彼女らの誰一人取りこぼすことなく包み込み鼓舞する「挑戦者たち」という言葉に、果てしない愛をみた。
(2020.7.21)
セッターとおにぎりと少年漫画
2018年11月17日、22歳の赤葦くんは大手出版社で働いているらしい。前髪が少し伸び、眼鏡をかけ、制服でもユニフォームでもジャージでもなければちょっとヘンテコな絵の入ったTシャツでもない普通の(ちょっとオシャレな!)洋服を着てカメイアリーナ仙台に現れ、試合が始まってるにもかかわらずおにぎり宮に並ぶ赤葦くんは、知っている人のような知らない人のような不思議な感じがした。四角い枠の中にぎゅうぎゅうに詰められた「赤葦くんの現在」を表す文字列を見つめながら、彼のこの5年ほどの努力を思った。大手出版社で働けるだけの能力が認められたことも、選考の過程でその能力を正しくアピールできるようにたくさん準備を重ねたであろうことも、そうやってアピールできる「自分」を作り上げたであろう大学生活4年間も、大学受験も。全部全部めちゃくちゃ頑張ったんだなあ、すごいなあって勝手に嬉しくなってしまった。そして編集者という職は、「いい大学に入って」「いい会社に入る」というなんというかわかりやすい「成功」という以上に、私の知っていた赤葦くんの進む道としてなんだかわかるなと思った。目標に向かってコツコツと、そりゃあもうコツコツと努力を重ね続け、今やるべきことできることに注力し(タスクフォーカス!)大学受験や就職活動を突破した結果、漫画という領域において光るものをもった人物を支え導きマネジメントする仕事で(当然仕事はこれだけじゃないでしょうが)飯を食っている。多分めちゃくちゃ向いてるんじゃないだろうか。
こんな服を着るんだなということも眼鏡をかける程度の視力であることも文芸誌を志望していたくらいには本が好きだったということも、こんなに優秀な子であったことも、私は今まで何も知らなかった。それはなぜかっていえば今までずっと赤葦くんはバレーボール部の赤葦くんであったからだ。狢坂戦が連載していた頃から1年が経ち、春高も何もかも飛び越えて突然22歳になって出てきた赤葦くんはもうバレーボールをやっていなかった。いや、わからないけど。でも大手出版社の激務をこなしながらバレーボールを趣味として続けているっていうのは考えにくいかなって思う。大学で続けていたか、高校3年生の春高まで残っていたかも微妙なところじゃないだろうか。赤葦くんの「未来」が純粋に喜べるものであったこともまた事実だけど、今確実にバレーボール人生を終えている赤葦くんを目にして、やっぱり感じるのはさびしさだった。私が唯一知っているはずの「バレーボール部の」赤葦くんの「バレーボール」を、それすら私はよく知らないまま終わってしまうんだな、というまあどうにもならないあれである。
バレーボール部の赤葦くんの話をする。赤葦くんという子は全国常連の強豪梟谷学園高校の男子バレーボール部で2年生ながら副主将、正セッターを努めていた子で、たぶん結構すごい。集団の上に立つ能力が評価されたのか主将たる木兎さんのサポートという形でこの役職を与えられていたのか分からないけど、バレー部は1月の春高の後新体制になるわけなので赤葦くんは1年の冬の時点で既に監督から、あるいは先輩から「副主将」というポジションにふさわしい人物であると思われていた(と推測できる)わけです。めっちゃすごいのである。彼がどんな子かというと、これは私の主観以外にはなりようがないので難しいけど、個人的なイメージで言えば「3本の指にはギリギリ入れないですかね」「一枚ブロックに勝っただけっスよ」「1点もやらないのはムリだと思います」このあたりの発言からは冷静で現実主義っぽいところを感じる。「先輩にわざときつく当たる」コミュニケーションの取り方をするようななんかおちゃめな感じの子には見えないかな?という感じなので、マジレッサーというか、真面目がゆえに…みたいな受け取り方をしている。かわいいのである。
そのイメージはプレースタイルについても同様で、後述しますが試合中に調子を落とす木兎さんへの対応なんかを見ても、基本的に「冷静」という言葉がやっぱりしっくりくる。夏合宿においては影山のトスが大きく変化したことを的確に捉えていたことだとか、春高の複数の試合で「解説役」を担っていたことから、洞察力だとか分析力みたいなものが優れているようにも感じる。赤葦くんの特性というより漫画の「説明役」という部分も大きいかと思うのでどの程度を赤葦くんの特性として受け止めていいのかというのは難しいところだけど、少なくとも説明役を担える程度にはちゃんと見えている選手として捉えてもいいのかなって思う。
初期に明かされたプロフィールの能力パラメータでは、ほとんどの項目において5点満点中4点という高得点が与えられている中、「パワー」だけ3を示していて、これについては赤葦くん自身が最近の悩みとして「もうちょっとパワーをつけたい」というように言っている。「能力パラメータ」は作者が作っているものなので客観的評価を正確に映しているものだけど、赤葦くんは自分に今足りていないものっていうのを正確に理解しているわけです。(というか、「正確に理解しているキャラ」として作者によって作られている。)また、夏合宿で見た影山のトスについて「俺には技術的に無理」だと分析しながらも特に感情的な動きも見られず冷静にゲームメイクを行っていることだとか、同じ試合で「少し熱くなりすぎている木兎さんにトスを上げた場合」とかって言って場合分けをして細かくシミュレーション・最善の手を考えているあたりを見ても、現状の把握と今の自分のすべきこと、あるいは課題について正確に認識している選手なのではないかな~と思う。
そして選手としての赤葦くんについて語る時にやっぱり外せないのが木兎さんとのことである。梟谷の試合の基本的なパターンとしては、試合序盤では調子の良かった木兎さんが何かをきっかけに調子を落とし、赤葦くんがそれになにがしかの対処をし、木兎さんが調子を取り戻す、というものである。その「対処法」としては、例えば夏合宿の烏野戦においては、しばらくトスを上げずに放置したのち相手チームの意識が木兎さんから逸れるタイミング、更に木兎さんが打ちたくてソワソワし出すタイミングを見極めて絶好のタイミングでトスを上げた。また東京代表決定戦音駒戦では、ローテーションと相手選手の分析の上で、木兎さんがもっとも得点しやすい状況を作り出した。更に春高栄和戦では、木兎さんの攻撃機会を減らし「そわそわし始めた」頃を見計らい、モチベーションを刺激する言葉を掛けることで精神面に働きかけた。
木葉の「赤葦たまには木兎スルーしても良いんだからな?まあ復活してもらわないとマズい時もあるけども…」という発言からは、チームのメンバーの立場から客観的に見ても、赤葦くんの対応が木兎さんの復調に一定の効果をもたらしていると評価されていることがわかる(赤葦くんはそれに対して「俺が引き出せるのは木兎さんの力のほんの一部ですし~」と答えており、自分が木兎さんをうまく使っているんだ、みたいな態度ではないにしても少なからず木兎さんのプレーに関与しているという自負が見て取れる)。東京代表決定戦における猫又監督の「木兎立て直しの手腕に拍手だな」という発言を見ても、赤葦くんがある程度木兎さんの調子をコントロールしていることが客観的にも評価されているんじゃないかな~と思う。
こんなふうに、赤葦くんの(あくまで主観的な)イメージとしては、冷静で分析力が高く、臨機応変な対応に長けた選手であるといえるのかな~と思う。ここまでが以前の赤葦くんの話。
赤葦くんという子は個人として主人公と強い関係性が描かれているわけでもなく、烏野とすごく特別な繋がりがあるわけでもない他校の選手であって、この子に焦点を当てた話がいつかくるのかどうか?はびみょ~なところ…といった感じだった。キャラクターとしての役割は月島との接触の中で終えているのかなとも思える。で、そんな赤葦くんなのですが、稲荷崎戦あたりから、「これはのちに回収が…あるの…かな?」と思えるような思えないような微妙な感じの伏線というか布石をね、ちょこちょこと置いていくようになったのである。
そのいちばん象徴的なもの(と私は思っている)が稲荷崎戦、254話「変人・妖怪・魑魅魍魎」において、日向影山の変人速攻をマネして見せた侑に対する赤葦くんの言葉だった。「相手の得意な事を敢えてやって見せる事で精神的圧力をかける それをやれるセンスとやってみようと思い切れる事に嫉妬しますね」。何かと説明役を担うことの多い赤葦くんですが、たぶん初めてというくらいに明確に「感情」が乗った言葉で、単純に説明のためだけのセリフではなく、赤葦くんの口から発せられたということに意味のあるセリフだった。限られた時間の中で自分のやるべきことに取り組んでいくためには、技術的に可か不可かという判断はやはり必要なものであるし赤葦くんはその分析が上手いんだろうと思っているけど、やってみようと思い切れる事に嫉妬するという言い方は、「やってみよう」の前の段階でもうやめちゃってるみたいな、というよりやめちゃってすらいないというか。「やらない」を積極的に選ぶわけでもなく、ただ「やってみる」は選べない、とブレーキをかけているような、そんな感じがした。基本的な技術の更に「+α」の部分に目を向けたとき、セッターとしての侑の強みというのは、梟谷のセッターとしての赤葦くんの強みとは対極にあるものなのかなと思う。たぶんそこに単純な優劣はないけど、赤葦くんが自分とは異質な強さを持つ侑のプレーに手を伸ばすことはしないまま嫉妬すると言ったことは、なんだかず~んと重く残った。
それから「考えすぎる」というワードが出てきたのが292話「いつの夜も二度とない」だった。この日の木兎さんの調子がよいことを振り返り、ひとり「欲を出すと良く無い事が起こる気がする」と難しい顔をする赤葦くんを見た猿杙くんの「赤葦がまた考えすぎてる」という心の声が描かれる。みんな思ってることをちゃんと口に出しなさい!という感じなのですが、赤葦くんは(やはり木兎さんの調子について、ということが多いと思うけれども)ひとりでぐるぐるぐるぐる考えがちだしそれを他と共有するかというと、まあ、しない。これまでを見ても他のメンバーが木兎さんに呆れていたりまあ分かるよ…と共感を示したりほっとけって放置を選んでいる間赤葦くんはひとりああだこうだと考えに考えを尽くして、結果的に木兎さんが調子を取り戻すという感じなわけである。
こういう感じで、伏線ってほどすっごくざわざわした感じでもないけど、赤葦くん推しとしてはちょっと今までとは違う描き方がされてきてるかな?みたいな描写がちょいちょいとある中で、狢坂戦が始まる。背負うものの大きさからかやはり考えすぎてしまった赤葦くんは、狢坂の「赤葦狙い」も相まって調子を落とし、一度ベンチに下げられてしまう。そしてコートの外から試合を見たとき、「この人達(恐らくはチームメイト)」と自分が同じであるかのように思っていた、そして有ろうことか木兎さんをコントロールした気になっていたと気づく(らしい)。なんて烏滸がましい。スターを前にしたとき自分にできる事とは「タスクフォーカス」——「いつも通り」をやることであり、唯一コントロールすることのできる自分の思考と行動に目を向け、「次自分にできる事とすべき事」に注力するのだと、一度どばっと溢れ出てしまった「嫉妬」「憧れ」を試合中には不要なものであると、振り切っていく。試合終盤、「いつも通り」をやる赤葦くんは、いきなりはやいタイミングで飛び出してきた木兎さんに、頭の中であらゆる攻撃の可能性や状況の分析・推測をぐるぐると巡らせる。そして「ああ ちょっとやってみたい」と一番単純な衝動に突き動かされるように、トスを上げる。セットの前にすでに木兎さんは踏切を終えている状態。木兎さんのバックアタックは桐生の腕を跳ね、落ちる。確かに「いつも通り」の外に足を踏み出した赤葦くんの衝動が1点につながった瞬間であった。
良かったことはあった。「タスクフォーカス」と同時に嫉妬や憧れを一旦はコートの外に締め出した赤葦くんが、今までやったことのない攻撃を突如要求してきた木兎さんに、あらゆる思考を飛び越え「やってみたい」と応えたこと。それは確かに「いつも通り」の赤葦くんのプレーではなかった。侑のプレーを見て、やってみようと思い切れることに嫉妬しますと言った彼が、スターのいるチームで勝つためにはそんな個人的な嫉妬や憧れを今は不要だとした赤葦くんが、「やってみたい」という感情に出会い、そしてついに試してみることができたことは、本当に嬉しかった。
それでもやっぱり、狢坂戦で描かれ、そして描かれなかったものは、1年が経っても自分の中にモヤモヤしたものを残した。333話の感想でもいろんなことを書いたけど、
全部が終わった今改めて思うことは、その1つは赤葦くんの自己評価の低さに最後まで触れられることなく終わってしまったなあということ。ベンチからコートを見つめる赤葦くんは、「いつの間にか自分もこの人達と同じであるかのように思っていた」と独白した。赤葦くんが「推薦で強豪校に来た2年副主将セッター」で、「影山からも一定の評価が為されている」ことを考えても彼は客観的に見て能力の高い選手だと思う。少なくとも赤葦くんが自分と「この人達」との間に線を引いちゃうのはちょっと変だ。実際の彼の能力と彼自身が認識しているそれとがちょっとズレすぎているように感じた。「赤葦くんを自己評価の低い人物にするな!」っていうことではない。赤葦くんと同じように自分に自信を持てず劣等感を抱いていた桐生は、チームメイトに弱音をこぼし、励まされ「自分に自信はないが信頼する仲間が最強だと言ってくれる」からと、仲間の信じる自分を信じることでやはり強くなっていた。対して赤葦くんはといえば、頭の中でぐるぐる考えていることは決して口に出さなかったし、そんな赤葦くんにきっと誰も気が付かなかった。コートのみんなと自分は違うんだと、なんて烏滸がましいことを考えていたんだとそういう振り切り方をしていつも通りに戻っていったことを、皆は最後まで知らないままで終わってしまった。
それから、赤葦くんという選手像が狢坂戦の前後でだいぶ変わったように感じること。ネガティブな振り切り方はしたけども、いつも通り自分にすべきことをやるのだという「タスクフォーカス」は、のちの烏野vs鴎台戦で赤葦くんによってこう語られる。「鴎台は俺が辛うじてやっとできた事を全員が常にやっているという感じです」…びっくりしてしまったのは、「次自分にできる事とすべき事」に目を向けるタスクフォーカスというやり方は、赤葦くんにとって狢坂戦でようやっと獲得したものなんかではないはずだから。赤葦くんはずっとずっとそういうことを得意とする選手であった、と私は思う。木兎さんが調子を落とす/落としかけたときに試合の状況なんかを分析し、自分のプレーでできることを通して木兎さんが調子を取り戻せるよう努めていたこともそうだと思う。たまたま狢坂戦では調子を落として「目の前の一球」から目が逸れてしまっただけで、いつも通りをやる赤葦くんの方が本来の赤葦くんだったんじゃないか。それはいつの間にか「ついさっき辛うじてやっとできるようになった」という話に変わってしまったみたいだった。
そして最後に、木兎さんとの話になる。試合後、赤葦くんは「試合中に余計な事を考えました」と涙をこぼす。木兎さんは、「最初は空回ってたけど!」「理由分かってんなら大丈夫じゃん」とまるで他人事のように言った。赤葦くんが今回「空回ってた」のは最後の試合だとかそういうことを考えすぎて、ていうのは勿論あるけれど、木兎さんが普通以上に気を遣う必要のある選手であるために「木兎さんの調子を落とさないよう」考えすぎてその全てで空回りして、っていうのがあったことも要因の1つだと思う。だからただのエースになるという木兎さんの宣言は、そういう状態から赤葦くんを自由にするものだと思ったし、そうやって空回りしてしまった赤葦くんをきっかけに飛び出したものなのだと思っていた。要は赤葦くんが今回直面した課題は実際には2人ともが向き合うものなんじゃないかと考えていたんだけど、この木兎さんの様子を見るにこれは一から十まで「赤葦くんの」課題であったということらしかった。木兎さんは以前、稲荷崎戦で空回る田中を見て「たった1本のミスでも全部だめだって気分になるんだ」と言っていた。全部だめだってコートで1人みたいな気持ちになった時に、いつも赤葦くんが突破口を見出す手助けをしてくれていたことは、木兎さんには本当に関係のないことだったのだろうか。う~~ん…そうだったのかもしれない。赤葦くんはベンチからコートを見つめ、「木兎さんをコントロールしていると思い込んでいた」と言う。調子を調子を落とした/落としそうになる木兎さんが何とか持ち直せるようにあれこれと考えて手を尽くしていた(つまりそれは木兎さんの調子の波をコントロールすることだと私は認識していたけれど)なんてことは赤葦くんの勘違いだったらしい。じゃあ赤葦くんのやっていることって一体何だったんだろうなあと思う。試合中にしょぼくれてしまう不安定なエースに対して赤葦くんが働きかけていたことは本当は別に必要じゃなかったのか!?あっけらかんとした様子で赤葦くんにアドバイスを送る木兎さんを見て、そんなことを考え込んでしまった。
梟谷は脇役で、烏野と強い因縁もないのは確かにそうで、狢坂戦では2巻にまたがって長い試合を描いてもらって、これ以上の出番はたとえ引退試合でもないだろうなというのは覚悟していたことだった。だからこそ、狢坂戦で描かれたものに納得しきれないままになってしまったのが残念だった。そしてこの春高を勝って終えたのか負けて終えたのかもわからないまま、あの世界では5年の時が経過してしまったらしい。梟谷が優勝するとかしないとかっていうことは結局どちらでもかまわなくて、3年生が後輩に何かを繋いでいくところが見たかった。レギュラーの3年生が5人抜けたチームで主将を務めることになるであろう赤葦くんの未来を感じられる何かが見たかった。自分はチームのみんなとは違うと言った赤葦くんがそう思い込んだままでいてほしくなかった。
今、赤葦くんは22歳になった。バレーボールは多分やっていない。いつまでやっていたかどんなふうにしてやめたのか、語られることはきっとないだろう。何百人といるキャラクター全員のそれを描くわけにはいかないので、まあそれは仕方ない!でもだからこそ、赤葦くん自身のバレーボールに唯一スポットライトが当たったあの試合で見たかったものがあった。これはいかにも盲目なオタクっぽくてあまり言いたくないけど(じゃあ言うな)木兎さんは自分のサポートをしていた赤葦くんに対して何か思うことはあったのかなとか、ありがとうって思うことはあったのかなとかってついつい考えちゃう。栄和戦で赤葦くんは、「絶好調の木兎さんは見ていてとても気持ちが良いですから」と話している。狢坂戦で語られた「スター」の話を見ても、赤葦くんにとってはきっと、スターにトスを上げることこそが大きな喜びだったんだろうなって思う。それはこっちが想像するよりずっとちゃんと「赤葦くん自身の喜び」としてあったんじゃないかな。だから例え赤葦くんのバレーボールのど真ん中にいるのが彼自身ではなくスターたる木兎さんであったとしても、赤葦くんが良ければそれでいい。「赤葦くんは」、それでいい。でもやっぱり私は赤葦くんのファンだから、赤葦くんにはそういうバレーボールをやっている「自分自身」のことも誇ってほしいって思ってしまう。赤葦くんには、自分自身がやっていたことにも価値があったと思ってほしかった!バレーをやめることを決めたとき、赤葦くんは自分のバレーボールのことをどう思っていたんだろうかと考える。もしかしたら「その時」の赤葦くんは自分を卑下することをもうやめていて、スターのいたチームで自分のしていたプレーがそれなりに褒められるくらいのものではあったことを分かってたかもしれない。その上で、高校の先のバレーボールとのかかわり方を決めたのかもしれない。もしかしたら挫折があったかもしれない。あるいは、もしかしたらスターのいるチームで自分がやっていたことの価値を知らないままに今に至るかもしれない。
バレーボールを仕事にしなかった誰もの人生に価値がある。この漫画は度々そういうことを描いてきたと思う。かつての小さな巨人は、テレビ越しに見ていた小柄な少年の心に確かに火を灯しながら、自分は他のやりたいことのためにバレー以外の人生を選んだ。高校バレーに悔いを残した明光は、仕事をしながらクラブでバレーを続けた。町内会のチームでバレーをする烏野OBは、忙しい中どうにか仕事と折り合いをつけて烏野高校バレー部のサポートに尽力してくれた。全国大会に出場するほどのチームで戦っていた北くんや天童や昼神は、「高校まで」と明言していたしそれはどれも希望に溢れた宣言であった。みんなみんなの人生が素晴らしい。だけど、この間まで高校バレーの選手であった彼らが、読者の見る事の出来なかったところで確かな人生の岐路に立ち、そして今バレーボールと離れた人生を送っていることに、今だけはちょっとくらいさみしいと言ったっていい、と思いたい。かつての小さな巨人は、私にとってはついこの間までは舞台装置か概念かという、そういう人物であった。バレーを仕事にしていない町内会の大人たちでも、やはりそれぞれの形でバレーボールに関わって生きている。高校でバレーをやめると宣言した選手たちのことを考えると、その最後の舞台を見つめていられたことにこそ大きな意味があったのだと思う。彼らと、ついこの間まで応援していた高校バレーの選手が突然5年後の姿としてバレーボールから離れた人生を歩んでいる様子を知らされることとは、自分の中ではやっぱり違う。何度も言うけれども、例え赤葦くんが挫折の末バレーを諦めていたとしても、悔いをひとつも残すことなくやめていたとしても、自分の能力を過小評価したままの決断であったとしても、どれだって失敗なんかじゃない。そしてどれであったとしても、今はバレー部の赤葦くんとの突然のお別れがやっぱりさみしいのである。
2020.1.30
ハイキュー‼︎第338話「小さな巨人決定戦」
ガールズの会話が若干ズレてるのになぜか噛み合っててかわいい。そして月島兄に駆け寄ってくる人物。もしかしてこれは!?
鴎台。言わずもがなの星海くんだけではなく、それ以上に厄介なのがブロック。「伊達工以上」と表現された時に伊達工の格が落ちるのではなく、あの伊達工よりも!?って鴎台がいかにヤバいか分かるっていうのはこれまで伊達工についても描写が積み重ねられてきたからだな〜と思う。特に春高直前に練習試合をやったのが効いてくる。
そしてついに、日向は「小さな巨人」に会う。7周年の今、ついになんだなあ〜という感慨がすごい。走って駆け寄っていく日向を見てちょっとじんわりきた。のが、現在の「小さな巨人」は他にやりたいことがあってバレーをやめていて、当時も特に声が掛かったりはしなかった、という事実に、もうもうひれ伏すのみ。めっちゃハイキューだ……!この漫画の主人公である日向、ひいてはこの物語そのもののルーツというか、1番根っこのところにいた「小さな巨人」でも当時声が掛からなかった、という事実に少しピリッと来て、だけれどもそもそも彼はやりたいことがあったから自分の意思で現在別の道を選んでいて多分すごく楽しく過ごしている(と思われる)、この世界にあるのはバレーボールだけではない、そして誰もがそれを選んだり選ばなかったりすることができるという希望。そのどっちもが本当にこの漫画らしいなと思った。
日向に大きな影響をもたらしたうちの1人である影山は「毎日毎日毎日バレーやってきた」子で、俺が何かにゼツボーするとしたらバレーができなくなったときだけだとそう言う人物で、そして日向のルーツである「小さな巨人」は「他にやりたい事があったし高校出てからはやってない」と言う。きっと日向は今ちょうどその2人の真ん中にいるんだろうと思う。高校までバレーをやることと、高校の先でバレーを続けることって多分意味合いがちょっと違うんだろうな。
日向に「がんばれ新小さな巨人!」と声を掛ける「小さな巨人」、良かったなあ。ああこの人は本当に今はバレーをやっていない人だ、という感じとか、そこにウェットなものがなにひとつ乗っていないんだろう、とか。「過去」に未練とかはきっとなくて、だけど過去の自分を見て始めたという母校の後輩にこうやって呼びかけるくらいには高校時代のことがいい思い出の1つでもあって、という。
あんまがっかりしてないという日向。きっと中学時代バレーを始めたばかりの頃や、高校入学したての春に「小さな巨人」に会っていたとしたらこういう言葉は出なかったんじゃないかな。「小さな巨人」って半分概念のようなものに自分を重ねて同じようになりたいと憧れてバレーを始めて、でも自分の身体で勝ったり負けたりを経験したことで、当時見た「小さな巨人」の姿はルーツではあっても「未来の自分」をぴったり重ねる対象ではなくなったんじゃないかな、と思う。
すごく爽やかな気持ちになる回でした。「小さな巨人」はいわば舞台装置のような存在だと思っていたので、まさか出てくるとは、と驚いて、だけど彼自身の人生の存在も、それがバレーとは離れたところにあったこともそこにウェットなものが乗っていないところも、全てが本当に良かった。高校時代に後悔を残した明光が今社会人バレーをやっていることとか、全国出場した/全国出場の経験がある北くんや天童がバレーは高校までと明言していることとか、実際に高校バレーをやめた先を今生きている「小さな巨人」がいることとか、その全てが本当に大好き。鴎台戦、わくわくしてきた〜!楽しみ!
ハイキュー‼︎第335話「夢中」
センターカラーのやっちゃんがかわいい~!古舘先生の描くお洋服は、今の高校生っぽさをすごく感じられるのが大好き。
木兎さんの回想。小学校の時のクラブチーム・中学校は地元のところに通ってたっぽいのかな。「丑」という地域。1人モチベーションの高い選手についていけない部員が出ることは、そう珍しいことではないと思う。木兎さんは、そうして近道をした部員たちを咎めたりということはしなかったけれど、それは強いからとか優しいからというわけではなくて、「自」と「他」の境界をしっかり分かっていたからなんだろうと思う。それは夏合宿の時に自主練に誘った月島に断られたときにさっと引いたところだとか、「たかが部活」と言った月島に俺はそう思わないけどそれも正しいと思うと答えたのもそうだった。ただ夢中で走って、ふと後ろを見たら誰もついて来てはいなかった。その時の表情に悲しみとか怒りとか戸惑いとかそういう感情の動きは読み取れなくて、「ついて来ていない」という事実だけを抱えてまた走っていく。これがこの時限りの出来事では決してなく「誰も木兎さんについて来れない」チームで彼が3年間バレーボールをやっていたことを思うと、少しつらい。きっと自分のことをそんな風に憐れむことなどしないであろう木兎さんに対してそんなことを思ってしまうのは失礼なのかもしれないけど、1人では勝つことのできないバレーボールで、木兎さんはこのチームで思うように「勝利」とか「楽しい」とかを追及できたのかな、と考えてしまった。
丑三つ時、真夜中にひとりであった木兎さんは、「梟谷」という同類のものが集まってくる環境で決してひとりではなくなった。木兎さんはあの中学時代を経て尚、きっとずっと変わらず同じようにいて、梟谷に集まった子たちもまた、木兎さんとぴったり同質ではなくても、気を遣って特別扱いをしたり距離を取ったりすることなくごく自然に同じ方向を向いて歩んでいける、そういう環境に出会うことができた。「強豪校」ではそうして皆が高いモチベーションを持って同じ方向を向いて歩んでいけることは当然と言えば当然かもしれないけれど、木兎さんが中学時代の(多分多くの人の目に留まる戦績を収めているとは言えないであろう)チームから「強豪校」に進めたことは、もしかしたら当たり前ではなかったのかもしれない。小学校から中学校、そして高校と、環境がどうであっても変わらずバレーをやってきた木兎さんは、高校が終わっても変わらずバレーを続けると言っているけれど、この梟谷でやるバレーが木兎さんにとって確かに特別なものだったんだなと、「もっと皆とやりたかった」という発言の重みをすごく感じた。この先どんな未来に進もうと、それが恵まれた環境であってもそうでなくても、隣に立つ人がいなくても後ろについて来る人がいなくても、木兎さんは決して変わることなく、あの中学時代の一場面であったようにただ走っていく人なんだろうと思う。だけどだからこそ、「もっと皆とやりたかった」と、今を思う木兎さんの言葉が聞けたのが、改めて嬉しいなと思えた。
リバウンド。まさかまさか、赤葦くんから教わったものだったとは。「リバウンド」って、やはり日向と木兎さんの「師弟関係」のきっかけとなったやりとりがすごく印象的。「リバウンド」は日向が自分自身の戦い方を見つけていく上でも大きなものだったんじゃないかと思うけど、(「下っ端1年のただのミスプレー」と本人は言うけれど)赤葦くんがこういった技術を身に着けていたこと、そして「楽しい」を追及したい木兎さんが誰であろうと何であろうと手を伸ばしてあらゆる戦い方を自分のものにするという素直さと貪欲さを持つ人物であったこと、そういう2人によって、この「リバウンド」が生まれていたのだなと思うと胸が熱くなる。
赤葦くんの言う通り、一見アバウトなように思える「楽しい」を考え、叶えていくことは本当に難しい。分かりやすい「一発」だけではなく、リバウンドにフェイント、プッシュ…と、木兎さん自身もそのプレーも一見非常に華やかであるように見えて、そこに至る過程を思うと、実際は地道でひたむきな練習の末に獲得されたものなんだとすごく思う。そんな木兎さんに引っ張られるように、桐生もまた目の前の相手・バレーボールに夢中になっていく。
ついに木兎さんのルーツのひとつを目にして、すごくドキドキした。と共に、どんどん彼らのことが語られていくことにさびしさというか、まだ全部知るのは早いよ~もうちょっと後でいいよ~みたいな、ワガママだけど。笑 そんな感じです。モノローグを口に出さない赤葦くんと、モノローグすらしない木兎さん。2人の関係性について何か展開が見られたらうれしいな~。
ハイキュー‼︎第334話「ネガティヴ限界突破」
とにかく木兎さん。会場中を味方につけて、それこそ「世界が俺に加勢している」状態。会場を沸かすプレーの「華」と、またその大盛り上がりの会場の空気を全部自分のエネルギーに替えて更にパフォーマンスを向上させていく様子がやはり「スター」そのもの。読んでいてもぐわ~っとテンションが上がって、ワクワクする感じ。何より木兎さんが生き生きとして本当に楽しそうにプレーをしているのがいい。
そしてその木兎さんの裏返しとしての、桐生。怯えだとか焦りだとかに縛られることなく、100%純粋に「楽しい」とプレーをする木兎さんはやはりすごいし、きっとそんな風にやれる人のほうが稀だろう。だけど「お前がこわい」と素直に言葉にできることも、チームの中でそれをこぼせることも、仲間への揺るぎない信頼を「自惚れ」に繋げようという勇気を持てることも、やはりすごいんだよ。ネガティヴな人がある時から突然自分に100%自信を持てるようになるなんてことはないし、自分を鼓舞する方法はそれだけではない。自分に自信がなくても、自分の能力を信じられなくても、「仲間」に対する信頼だけは確実で、その信頼できる仲間が「お前は全部やってきただろ」と言い自分にボールを繋げてくれる。じゃあその仲間の信じる「自分」を信じてみよう、っていう流れが本当にいい。コートに6人選手がいるというのは単に役割や責任の分担ではなくて、人間同士の関係性やコミュニケーションや精神的なやり取りがあるからこそ生まれるものがある、それは良くも悪くも。ってすごく当たり前のことなんだけどすごく実感した。
で、こんな風に今考えても仕方ないようなことをつい脳裏に浮かべてしまってプレーを邪魔するノイズみたいなものだとか、誰かと自分との比較から生まれる嫉妬や羨望や劣等感だとかをまっさらにするわけではなくてもこうやって振り切ることのできた桐生を見て、やはり先週の赤葦くんのことを考えてしまうんだな~~。2人がこういった「ノイズ」や「誰かと自分」っていうことについて、非常に似た状況にありながら、それをチームと共有した桐生と内省に留めた赤葦くん、という違いも気になるし、そこから導き出した結論が「自惚れろ」と「いつも通り」であったこともそう。前の記事でも言ったように「いつも通り」が悪いわけでは決してないし、「いつも通り」の強さを知っていることも素晴らしいことなんだけれども。今週の「自惚れろ」に至る思考がどんなものだったかって見た後だと余計に、「いつも通り」という選択の中にどれくらい「自分」があったか?と(すごく抽象的な言い方ですが)気になってしまう。それは2年生と3年生の違い、セッターとエーススパイカーの違い、ということもあるかもしれないけど。
そして今週白布が赤葦くんに言及したことの意味を考える。まず「大エース」にトスを上げるセッターとして、というのがそう。更に言えばその中でも大エースを立てるセッター、という方向に100%振り切ったのが白布である。白布の「1セット目は何かイライラしたけど2セット目はいい」という発言は「同族」としてのもので、大エースがいるにもかかわらずセッターがアレコレやって空回りして何やってんだよという苛立ちがあったのが、立ち直った赤葦くんが2セット目で見せている「いつも通り」のプレーについては評価しているように思う。白布の考える、「大エース」のいるチームでのセッターとして「正しい」振る舞い方に合致した動きを赤葦くんが第2セットでは見せているということなんだろうと思うけど、このシーンが描かれた意味とは?と考えたとき、333話の赤葦くんの出した結論の「正しさ」を担保する・肯定する役目を白布が担ったのか、あるいは、赤葦くんが白布ほど「振り切って」はいないことや、桐生の流れも考えたとき、本当に「2セット目はいい」のか?という引っかかりになっているのか、どちらもあり得そうに思えてきて難しい。というか、私自身が赤葦くんの物語にまだ展開があるんじゃないかあったらいいなとやはり考えてしまうので、後者のほうの可能性をつい求めてしまうというだけかも。
うーん。やっぱり333話に引きずられっぱなしの感想になってしまった。「ははは」もまあきつい。今の赤葦くんはもう「俺達が世界の主役」とは言わないんだろうな、と。赤葦くんのことばかり話してしまったけど、狢坂、本当にいいチームですごく読み応えのある回でした。