ハイキュー‼︎第311話「おしまいの悲しみ」

研磨・音駒の策に感づいた烏野だけど、あくまで冷静、譲らないところは譲らない。初読時はそのことにすごく安心したけど、最後まで読むとまた印象変わるね。チームとして向かう方向・取るべき策に一切の迷いや揺らぎがなく、固まっているからこそ、日向はまた苦しいよなあ。この冒頭のミーティングにおける日向の明るさというのも、またそう。今までも、日向にとって辛い場面やチームの雰囲気が重くなってしまうような時間というのはあったわけで、やはりその度に日向の無意識の言葉や狂気的でさえあるような前向きさなんかに支えられてきた。今回も、追い詰められた当の日向が、あくまでも進むべき方向を見失っていないことに一度は安心した。それに「がんばったらできる」って、言葉としてはふんわりしているけど、実際には「何をどうがんばる」のか、ちゃんと分かっているように思えたし、そりゃ全部がんばる(サーブレシーブを受けて、あるいは西谷他選手に託してから助走距離をきちんと確保した上で攻撃に入る)のは決して簡単なことではないけど、日向だったらやってのけるだろう、そうやって研磨の思惑を超えていくんだろう、という信頼はやっぱりあった。のが、ねえ。

 

 

やっぱり研磨がすごいなと思うのは、「翔陽の得点をちょっとでも削る」という目的に対して、①サーブを取らせる ②助走路塞ぐ ③迷いを生じさせる って、どこまでも周到に用意しているところ。①がダメだったら仕方ない、ではなくて、結果的に日向がサーブを取るという形になっても他選手が取るという形になっても、②や③に繋がるように元々考えられてる。それが本当に強い、怖い。「日向の得点を削る」ことのできる回数・頻度は「ちょっと」でも、その「ちょっと」を確実にやってくる。「ちょっとでもいいんだ」っていうのは、ちょっとでもできたら及第点、だとか、希望としてはちょっとでもできたらいいな、ではなくて、削るチャンスのある「ちょっと」を、綿密な計画によって「確実な」「ちょっと」にする、っていうことだもんね。

 

 

そして日向のレシーブ意識の高まりについても言及。改めて研磨の口からそれが語られると、やはりあのセット間の会話に研磨の意図を感じ取ってしまう。

 

 

日向が「全部がんばる」ことすら、研磨は分かってる。本当にどこまでも、どこまでも研磨の手の上なんだ、と苦しくなってしまう。でもそうじゃない、とやっぱり思いたい。日向も烏野も、決められたシナリオを一通りクリアしたらおしまいのゲームとは違う。人間だから、常にアップデートを繰り返して進化する。そしてその上で、研磨に「別に」以外のことを言わせるって、ほんとのほんとに難しいことなんだとあらためて分かる。研磨に「別に」以外のことを言わせるということは、「おしまい」の時に「悲しみ」以外の感情を日向が研磨にもたらさなければいけないということなんだろうし、たとえば日向が研磨にとって「面白い」存在であり続けることができたとして、それでも「バレー」に対して「別に」以外の言葉が出てくるというわけではない。それはあくまでも「日向が」「ゲームとして」面白いというだけで、バレーはただの手段。だから研磨に「別に」以外のことを言わせるためには、日向が面白い存在でい続けることに加えて、バレーが「目的として」面白いと思わせなきゃいけない。ゲームの代替ではなく。これ、現状絶対無理じゃんとしか思えないくらいだけど、本当にどうなるんだろうか。

 

 

「100%で跳べない翔陽に影山は興味なんか無い」、かなりクる。稲荷崎戦の田中の時は、田中が決め切れない時でも本当は調子がいいというのを分かっていたから、「上げるな」という頼みには応じず、信頼(脅迫)しトスを上げ続けた。今回は日向の調子云々ではなく、根本から日向の攻撃チャンスが削られてる。そこを突破するには、日向は影山の信頼を獲得しなければならない。コイツに上げたら決めてくれる、決めろよという信頼を。100%で跳べない翔陽に影山は興味なんか無いと言い切る研磨は、今の日向は影山の信頼を獲得し得ない、あるいは影山は今の日向を信頼し得ないと考えてる。だけど1つ気になるのは、研磨は影山に関しては最終アップデートを済ませていないのではということ。GWにはじめて試合をし、夏合宿でも向かい合ったけれど、それ以降の影山の成長・進化をもし計算に入れていないとしたら、研磨の誤算はそこにあるのではないかとも思う。と同時に、だけどこの場面、日向は自分の力で見つけなきゃいけないこと、達成しなきゃいけないことがあるだろうなとも思うし。

 

 

そして、相手に対応され活躍できない、八方塞がりの状態のスパイカーとセッターの関係性ということから連想したのが、やっぱり木兎さんと赤葦。木兎さんの場合、思うようにプレーできない時の最終的な要因っていうのは「自分自身のこと」で、今回の日向とはまた違うところもあるんだけど。「放置しても」「しょぼくれても」どうにかできる、最後はエースに任せられる、という信頼の基盤として、勿論木兎さん以外のメンバーの強さっていうのは大いにあるけど、更に、やっぱりコートに留めておくだけの価値があると思えるような信頼があって、またそう思わせるだけの能力の高さっていうのを経験として分かっているからこそっていうのは確実にあるんだと思う。彼らのチームにも「初めて木兎さんが活躍できなかった時」があったわけで。この試合が日向にとってそうなのかもしれないし、ここから積み重ねていく経験が、今後の信頼の基盤にもきっとなる。やっぱりここをどう超えるのかだね。

 

 

日向と大地さんの「入れ替わり」の話。こういうのって今回に限らずずっとあることなんだろうけど、音駒があらゆる手段で日向封じを仕掛けてきて、成功している今、「いつもと同じ」牽制も、日向の「また攻撃行けない」って焦りや苦しさに拍車を掛けるプレーになるだろうなと思う。黒尾の「ここまでチビチャンの存在感が〜」というモノローグ、なんだか分からないけど泣きそうになってしまった。日向の存在感がここまで薄いことは音駒にとっては思惑通り、またはそれ以上の「望ましい展開」であるし、黒尾も日向のネットの向こうの相手としてそれを喜んでいるんだけど、だけどどこかに「知った後輩」へのまなざしが滲んでいるみたいで。言うまでもないことだけど、別にそこに優しさとか同情は一切ない。「知った後輩」だからってどうってわけではない。黒尾はこの展開を「研磨を通して」見ていて、その相手は練習試合や自主練を通してよく知っている後輩、っていうのがこのモノローグに微かに滲んでいて、それを第三者の視点から見ている者として、なんだかじんわりきてしまった。

 

 

そしてリエーフ、これ確実に日向に重ねて描かれてるよね。具体的には6話の日向でもあるし、1巻から現在までの日向のイメージとしてもそう。リエーフは読み切りの時の日向(背が高くてエースに憧れている素人(ほぼ素人?))を確実に受け継いでいると私は思っていて、そして身長を失った代わりにどんな逆境でも茨の道でも、ひとりでも、前だけ見て突き進んでいける強さを手に入れて生まれたのがこの連載版の日向なのかなと思う。そのリエーフが今、日向に、また日向の持つ「何か」に重ねて描かれることってすごく恐ろしい。この物語の主人公である日向の持つ「何か」は、どこがどう特別なの?リエーフではいけないのか?という話になってくる。「小さいMBがバレーボールで勝っていく」というのは、もちろんメタ的には日向が主人公である理由・日向を主人公として物語を進める意味として機能するけれども、この世界の中ではそうではない。日向翔陽という1人の人間性がバレーを続け、勝てるだけの根拠を、彼は何より自分のプレーによって獲得しなくちゃいけない。日向がそのことに直面しているのがまさに今なのかも。

 

 

日向の表情があまりにも苦しい。これまで、キツイ場面でも自分や周りを鼓舞してきた日向は、今回も「がんばったらできる」とひたすらに前を向いていたし、日向ががんばってどうにかなるのを期待した。だけれども今回はそうではない。烏野自体は雰囲気も良く、調子も良い。2セット目も終盤に差し掛かるところだけど、得点としても烏野はまだリードを保っている。日向が思うように攻撃に参加できていないこと以外、烏野はかなりうまくいっている。それがまた日向の孤独を深めていて、つらい。

 

 

そして研磨は日向という超おもしろいゲームの「おしまい」を悲しむ。翔陽はいつも面白いね、とか、負けたら即ゲームオーバーの試合やってみたいかも、と言い続けていた研磨が、「面白い翔陽の終わり」に、ここまであっさりと、引いていけてしまうことがまた苦しい。ここまで描かせてしまう研磨のキャラクターとしてのパワーもまたすごい。日向がここからどうやって上っていくのか私にはまったく想像がつかなくて、ガンバレガンバレとそう思うことしかできない。おしまいなんかじゃねーぞって見せてやってくれよ。その先にしか、研磨の【「別に」以外の言葉】はない。苦しいけれどこれこそ私の大好きなハイキュー!という要素がてんこもりの、重い1話。